自閉症スペクトラム(1)-(5)

読売新聞[医療ルネサンス]シリーズ、2014年7月連続5回


自閉症スペクトラム(1)家庭で療育 言葉増える(連載)

生後4か月で首がすわり、7か月で寝返りをうち、12か月で一人歩き……。関東地方に住む女児(8)は、順調に成長した。だが、母親は7か月を過ぎたころから違和感を抱き始めた。
 「笑いかけても笑い返さない。アーアー、ブーブーなどの喃語(なんご)が出ず、私たちに何か伝えたいという思いが感じられない」。周囲からは「気にし過ぎ」と言われた。10か月健診では「言葉の遅れは女児との接触が足らないため」と諭されて、子育て本を薦められた。
 女児に頻繁に話しかけ、絵本の読み聞かせを続けた。しかし、1歳半になっても意味のある言葉は出ず、指さしや身ぶりで意思を伝えることもできなかった。
 1歳9か月の時、県立病院の発達障害を専門とする外来を受診した。用紙が渡され「単語を五つ以上言えますか」など発達の状態をみる質問に答えた。全て「いいえ」になり、2歳過ぎで、自閉症スペクトラム障害(広汎性発達障害)と診断された。
 この障害は脳機能の一部の異常で起こると考えられ、話し言葉が出にくいなどのコミュニケーションの問題、他人に関心がなかったり目を合わせられなかったりする対人関係の特異性、特定の物に強い興味や執着を示す固執性、などを特徴とする。知的障害がある場合はカナー型自閉症、ない場合はアスペルガー障害や高機能自閉症とされてきた。
 女児はカナー型自閉症が疑われた。だが、病院は発達の段階を定期的に評価するだけで、その子の特性に合わせた適切な支援で障害の軽減を図る「療育指導」は行わなかった。知的障害を「治らない」と決めつけ、診断後は何もしないこのような医療機関が今も目立つ。
 「このままでは本当に話せなくなる」。病院に通い始めて間もなく、不安に駆られた母親は、知人に紹介された自閉症児の療育法「応用行動分析」を家で実践し始めた。苦手な行動を細かく把握し、ほめながら克服していく方法で、成功体験を積み重ねた子どもは自己肯定感を高め、課題に積極的に取り組み出す。
 母親はテキストを参考に、女児と2人で練習を始めた。万歳のまねや、指示を聞いて積み木を皿に入れるなど、反復動作を繰り返した。発語の練習も始め、毎日1〜3時間の療育を継続した。
 半年ほど続けて2歳半になると、意味のある言葉が出始め、描いた絵を見せに来たり、母親の目を見て「これおいしいね」と言ったりできるようになった。母親は「相手に共感を求めるような言動が増え、表情が豊かになった」と振り返る。ところが、言葉が増えると新たな問題が起こった。(このシリーズは全5回)


自閉症スペクトラム(2)早期療育で通常学級に(連載)

相手かまわず一方的にしゃべり続ける。同じ言葉の繰り返しや、場面に関係のない話を突然始める。
 自閉症スペクトラム障害と診断された関東地方の女児(8)は言葉が増えるにつれて、新たなコミュニケーションの問題に直面した。会話がマイペース過ぎて、周囲がついて行けないのだ。対応に慣れた両親とは意思疎通できるものの、同年代の子どもとは会話が成立しなかった。
 自己流の療育に限界を感じた母親は、2歳11か月になった女児を連れて、なかじまクリニック(埼玉県戸田市)発達外来を受診した。主治医となった小児科医の平岩幹男さんは「着実に成長しています。楽しみながら療育を続けましょう」とアドバイスした。
 療育には笑顔が欠かせないので、肩の力を抜くよう勧めたのだ。平岩さんは「1、2歳で発育の遅れが明らかであれば、早期療育を始めるべきで、母親の対応は理想的だった。心配のし過ぎや過剰な診断は禁物だが、今の日本では必要な子どもに早期療育が行われていない」と指摘する。
 平岩さんは外来対応を重ねるうちに、女児の言語能力の弱点を見つけた。女児は、耳で聞き取った言葉を理解しにくい特徴があったのだ。そのため相手の話に即座に対応できず、話が一方的になったり、見当違いの方向に進んだりした。
 一方、目で見た言葉を理解する能力は優れていた。そこで平岩さんは、幼稚園に進んだ女児に、本を読んだり手紙を書いたりすることを勧めた。市販の幼児教材にも取り組み、学習能力を伸ばした。自閉症スペクトラム障害の子は、体のバランス感覚が未熟なことが多いため、トランポリン教室にも通ってもらった。
 幼稚園の年長になると、特定の友達と仲良く遊べるようになった。友達の冗談が理解できず、けんかになることもあったが、無事に小学校の通常学級に進学した。読書好きで、同年代の子どもに負けないほど語彙(ごい)力を伸ばしている。
 女児がもし、療育を受けなければどうなっていたのか。平岩さんは「言葉をほとんど話せず、通常学級に進めなかった」とみる。
 女児は今も、お笑い番組で笑いのポイントが分からないなど、聞き取りの問題を抱える。だが母親は「友達の反応に合わせて笑うなど、欠点を補う行動ができるようになった」と変化の手応えを感じている。
 平岩さんは「この障害の子は、人間関係が複雑化する思春期をどう乗り越えるかが重要。対人関係を円滑にするコツを身につけてもらうなど、継続的な支援が欠かせない」と語る。


自閉症スペクトラム(3)「統合失調症」 多い誤診(連載)

「お子さんよりもお父さんのほうが心配です」
 2006年、不注意な行動が目立つ小学生の長男の付き添いで埼玉県戸田市のなかじまクリニック発達外来を訪れた父親に、担当医の平岩幹男さんが話しかけた。表情の変化が乏しく、言葉もたどたどしい様子が気になったのだ。
 直感は正しかった。父親は1997年、20歳代後半で統合失調症と診断されていた。幻聴や妄想に苦しむ病気で、父親は精神科医が処方する多くの薬を飲み続けた。しかし、効果よりも記憶力や気力の低下を招き、仕事にも支障が出た。
 父親に比べれば、長男は対処しやすかった。学習能力が高く、テストは素早く解けるのに不注意な解答ミスを繰り返す。友達との会話中に趣味の話を突然始めて浮いてしまう。学校で発達の障害を疑われたが、平岩さんは「障害と呼ぶような段階ではない」と判断した。
 テストは提出前に何度も見直す習慣をつける。友達の話を遮る時は、その前に必ず「話は変わるけど」と断る。こうした生活技能面のアドバイスで、長男の問題は解消していった。
 一方、父親の状態はますます悪化し、退職に追い込まれた。平岩さんは、父親の成育歴や病歴を知れば知るほど確信を深めた。
 「統合失調症ではない」
 精神科受診のきっかけは、生来の心配性が過度になったためだった。当時交際していた妻とのデート後、「帰りに事故に遭うのでは」と心配で後を追ったり、頻繁に電話をかけたりする行動が続き、これが病的な妄想と判断された。だが、こうした思いは統合失調症で起こる理解不能な妄想ではない。平岩さんは精神科医に手紙で治療連携を求めたが、「薬を減らすと更に悪くなる」と拒否された。
 2010年、父親は平岩さんの指導で薬を少しずつ減らした。半年後にはゼロになり「やる気と思考力がウソのように戻った」。今は専門技能を生かし、大手ゲーム会社で働いている。
 父親は、自閉症スペクトラム障害の一つ、高機能自閉症だった。このタイプは知的能力に問題がなく、一芸に秀でて活躍する例もある。ところが、強いストレスを受けると妄想的な行動が出たり、強迫的な考えにとりつかれたりする場合がある。ストレスの多い思春期や青年期に、こうした状態に陥り、統合失調症と誤診される事例が後を絶たない。
 平岩さんは「引きこもりも、多くは高機能自閉症などが背景にある。彼らの特性を知り抜いた医療関係者のカウンセリングや、予防のための療育の充実が欠かせない」と語る。


自閉症スペクトラム(4)民間施設 成長に応じ療育(連載)

自閉症スペクトラム障害の適切な療育を求める声が高まっている。だが、対応できる医療機関や公的施設は限られ、民間施設の力が期待されている。
 東京都新宿区の療育施設「ADDS」。昨年秋から週に1度通う男児(3)は、父母やスタッフのまねをして手を動かしたり、目を見て笑ったり、好きな動物の名前をたくさん言ったりできるようになった。
 ところが、同施設に通うまでは出来ないことだらけだった。意味のある言葉が出ない。呼びかけに反応しない。人の顔を見ない。集団の中で周りに合わせて動くことができない……。
 同じ子どもとは思えないほどの変化だが、共同代表の竹内弓乃さんは「知的障害を疑われた子が、療育で通常の発達段階に至る例は珍しくない」と語る。
 3年前に誕生した同施設は未就学児の療育が専門で、臨床心理士らスタッフが子どもに対応するだけでなく、父母に療育の仕方を教える保護者トレーニングを特徴とする。父母と子どものやりとりをスタッフが傍らで確認し、子どもの注意を引くコツなどを指導する。
 療育施設の中には高額な料金が必要な所もあるが、公的な児童発達支援事業の指定事業所でもある同施設は、基本の自己負担額が毎回1200円(保護者トレーニングは別料金)となる。
 同施設の療育は、米国で開発された「応用行動分析」を生かしている。自閉症スペクトラム障害の子どもは周囲の環境を理解し、そこから自然に学ぶことが苦手なので、得手不得手を細かく把握し、できることをほめて伸ばす。例えば「おはよう」の声かけに「おはよう」と返す練習や、「ケガしちゃった。どんな顔かな」と聞いて、正しい表情の絵を選ぶ練習を繰り返す。分からなければヒントを出し、正解したら盛大にほめる。
 同施設では、通所の度にスタッフが子どもの成長ぶりを確認し、新たな課題を20種類以上作ってプリントにして渡す。自宅療育はその課題に沿って進める。
 子どもの発達段階によっては、課題ができた時にお菓子などの好きな物を与えることもある。しかし物で喜ばせる方法は一時的で、人にほめられる喜びで自然に行動できるように導く。
 米国の研究では、応用行動分析の療育を受けた幼児の知能指数は、1年で平均21ポイント上昇した。同施設では、保護者トレーニングを受けた家庭の子どもの半数が、通常学級に進学している。
 竹内さんは「子どもは大きく伸びる力を持っている。療育を学ぶ大学生らの研修にも力を入れ、日本の療育の質を高めたい」と話している。


自閉症スペクトラム(5)子どもの努力 ほめて(連載)

◇岡明さん 東大病院小児科教授  
 自閉症スペクトラム障害(広汎性発達障害)などの子どもの診療に力を入れる東大病院小児科教授の岡明さんに医療機関での療育のあり方などを聞きました。
 ——発達障害の子どもは増えているのですか。
 「知的障害があるカナー型自閉症が急増した実感はありませんが、知的障害がないアスペルガー障害などの診断は増えています。社会の変化で適応が難しくなり、問題を抱える例が増えたのではないでしょうか」 「例えば医師の中にも、治療技術は一流なのに患者対応がうまくできない人がいます。昔はそれでもやれましたが、今は患者の思いを敏感に受け止め、病状や治療法を分かりやすく説明する役割まで求められます。今の社会がアスペルガー的な傾向を持つ人には生きづらいことは確かでしょう」
 ——発達障害の療育に力を入れる医療機関は少なく、東大病院の取り組みが注目されます。どのような体制を目指すのですか。
 「療育は小学校入学までの早期対応が重要です。小児科医は乳幼児健診から子どもに関わり、言語、心理の専門家や保育機関との連携など、療育的な環境にあります。我々の小児科では、精神科の児童精神科医と協力し、また外部の療育施設と連携して、思春期や青年期も見据えた療育の窓口を目指したいと思います」
 「早期療育はカナー型自閉症の子に特に重要で、言語能力などを大きく伸ばす例があります。アスペルガー障害の子も、幼い頃に家族や友達との接し方を身につけると、心の病の予防につながります。療育は様々な手法があり、一つに固執せず各方法の長所を生かすことが大切です。我々が療育施設と密に連携するためには、施設の質を評価する仕組み作りも欠かせません」
 ——自閉症スペクトラム障害と共に代表的な発達障害である注意欠陥・多動性障害は、過剰な診断や投薬が問題視されています。現状をどう見ますか。
 「多動や注意力の欠如はどんな幼児にもあります。小学校の高学年になっても低学年のような多動が続く場合などに、障害の可能性を考えます。しかし、そうした子も成長するにつれて多動は収まっていきます。本人の問題ではなく生活環境の影響で落ち着かない例もあり、医師は家庭や学校の状況にも目を向けなければなりません」
 「薬は中止時期を見据えて一時的に使うのが原則で、処方中も療育的指導が欠かせません。保護者には、薬で行動が落ち着いても『薬が効いたね』ではなく『がんばったね』とその子をほめてほしいと思います」
 「子どもは必ず代償的な能力を発揮します。注意力に問題があり、忘れ物を繰り返す子は、事細かくメモを取るようになったりするのです。こうした努力をほめて伸ばすと、子どもは大きく成長します」(佐藤光展)
 
 ◇おか・あきら 東大医学部卒。ハーバード大ボストン小児病院、国立成育医療センター、杏林大病院などを経て2013年から現職。日本小児神経学会理事。

認知症と家族

[医療ルネサンス]認知症と家族 201505

 

(1)病気を学び語り合う教室
読書好きでもない夫(67)が、脳の老化予防効果をうたう「脳トレーニング」のテキストを買ってきた。11年前、若年性認知症と診断された翌日のことだ。
 一緒に告知を受けた妻の私(66)も、動転していた。「寝たばこはだめ」「何かの病気を併発して亡くなる方が多い」という医師の言葉だけを覚えている。症状の推移や介護方法も何も分からない。医師に何を質問すればよいのかさえ、頭に浮かばなかった。
 異変は、少し前に表れていた。頭にもやがかかるように感じるのか、夫は「真っ白だ、真っ白だ」と言う。勤務先の会社まで車で往復する道も、脇道に入ると場所の見当がつかない。コンピューターが使えない、ミスが多いなど、仕事上の問題も増えた。
 それでも備品整理などに職場を替えつつ、夫は61歳まで働いてくれた。自分をコントロールできなくなる不安にも耐えてくれた。「辛(つら)い」も「怖い」も言わなかった。本当に強い人だと思う。代わりに口にする「お母さんがいるから生きられる」「好きだよ」に、どれだけ救われたことか。
 退職の日、夫は多くの社員に会社の玄関で見送られた。私も「家族のためにお疲れさまでした。ありがとう」と、感謝を伝えた。
 2012年、国立長寿医療研究センター(愛知県大府市)もの忘れセンターが開く「家族教室」に参加した。認知症に3年かけて向きあった。認知症という病気を学び、自分を知り、仲間と語りあえる場がそこにあった。
 症状は進み、夫との会話は、ほとんど成り立たない。介護度は最も重い5。心の優しい、ごく普通の人なのに、その本質は何も変わっていないのに、認知能力や、食事のとり方、服の着脱などの機能が、「また落ちた、また落ちた」と低下していく。
 半年前、夫のオムツ交換をしながら、「お父さん、やってもらうばかりで幸せだね」と問いかけた。思いがけない返事があった。「幸せじゃない」。夫は、確かに何かを感じている。
 何気ないひと言が、どこかで夫を傷つけてはいないか。そんな罪悪感と、やり場のないいらだち、その時々を乗り越えていくしかないという気持ちの間で、心は騒ぎ、波打つ。
 そうしてまた、日常が戻る。(この項つづく)
    ◎
 国立長寿医療研究センターもの忘れセンターの「家族教室」に通う4組の家族が、思いや工夫を語ってくれた。超高齢社会を生きる私たちが共有すべきものは何か。

 

(2)「介護地図」で環境を把握
自分が暮らす環境を冷静に見つめられれば、楽になる。国立長寿医療研究センター(愛知県)の「家族教室」で学んだ今は、そう思う。
 昨年7月、若年性認知症の夫(67)の介護体験を妻(66)の立場で語った。一緒に学ぶ30人の仲間たちが聞いてくれた。
 8年前、夫が会社を退職した時、最大の心配は徘徊(はいかい)だった。夫は若く、体力もある。どうしよう。別棟の息子夫婦は共働きで、頼れない。頼ろうとして拒絶されたら自分たちが傷つく、という不安も強かった。
 数か月悩んだ末、思い切って、あいさつ程度のつきあいしかなかったご近所の妻たち5人を自宅の食事会に招いた。皆が同世代。サラダや煮物などを持ち寄った。「夫は認知症です。うつる病気ではありません。徘徊する姿を見たら、何気なく声をかけて下さい」。そう話した時、全員からもらった言葉が忘れられない。
 「大丈夫だよ。ひとごとじゃない。明日は我が身」
 ある日、夫が日課の散歩に出かけると、10分して電話が鳴った。「ご主人を“拉致”しました。コーヒーをお出ししたので、よろしかったら奥さんも来ませんか」。別の早朝。玄関に出ると、すでに隣の主人がいなくなった夫と立っていて、「どこへ行けばよいか分からないとおっしゃるので、お連れしました」。
 地域には興味本位で接してくる人もいるが、話をそらすようにしている。
 家族教室では、人間関係や周辺環境とのつながりを図にした「私の介護地図」を自分なりに2枚つくった。
 初診時からの5年分(前期)と、その後5年分(後期)を見比べたことで、夫と私が社会でどんな位置に置かれているのかを振り返り、周囲にも、言葉でうまく表現できるようになった。地域の人々や施設との関係は、後期の5年間で驚くほど厚く、濃密になった。
 認知症の介護は、徘徊や下の世話に耐えなければならない——。そんな思い込みに誰あろう自分自身が縛られていたことも、こうした関わりの中で学んだ。
 夫が、我が家とご近所、支援者や仲間たちをつなげてくれている。夫がいるから夜も一人ではない。生活や食事も乱れない。認知症でも、夫には夫の役割がある。私は夫に支えられている。認知症患者は決して特別な存在ではない。
 発病からの11年をゆっくり語り終えると、家族教室の仲間たちから大きな拍手が送られた。
 夫は「生きたい」と言う。私は、辛抱強く、優しく、穏やかに接していきたい。

 

(3)死ぬまで妻のそばに
 妻(70)のことは、名前に「さん」づけで呼ぶ。別の高校の新聞部長同士が結婚し、45年。妻が64歳で認知症を患っても、変わらない夫(71)でいたい。
 今年1月夜、持病の不整脈の発作が起き、妻を残して救急病院に駆け込んだ。午前0時過ぎ。帰宅すると、妻が姿を消していた。
 パジャマ姿でサンダルをつっかけ、玄関を出たらしい。外は氷点下の寒さ。妻に方向の認識はなく、信号機も分からない。不安なのだろう、いつもは10メートル先までしか歩かず、角も曲がれない。一体、どこへ?
 2世帯住宅の2階に住む息子と、懐中電灯を手に飛び出した。昨年まで飼い犬と散歩した道。神社、寺、風をよけられる公園のツツジのくぼみ。5台のパトカーも出動した。いない。いない。いない。妻の死を考えた。1年半前、徘徊(はいかい)した女性が田んぼのあぜ道で死後数日して見つかった事件が頭をよぎる。
 午前2時過ぎ、妻は、約2キロ先の踏切で見つかった。帰宅途中の女性が見つけ、車に乗せてくれた。妻は町名だけは伝えられたという。家の近くで女性の車と遭遇した。助手席の妻の姿を見て、涙が出た。
 妻が変わっていく姿を見続けていた。2012年と13年、国内外の2度の旅行先で左足を骨折し、その都度3〜4か月入院したことで、認知機能が一気に落ちた。
 かつて住んでいた町へ「帰りたい、帰りたい」と言う。10年近く住んでいるのに、「ここは私の家ではない」と思っている。無理に連れてきてしまったのかと、胸が痛む。
 妄想とうつ症状で落ち込み、時に激高する。薬で気持ちを安定させる方法もあるが、認知症への悪影響が心配であまり使わない。
 こうした変化の一つ一つが、自分にとっても初体験だった。何か役に立つ情報はないか。11年から、国立長寿医療研究センター(愛知県)の「家族教室」に参加した。家族同士で傷をなめあう場、とは異なっていた。
 病気がどう進み、生活がどう変わるのか。現実を知るのは怖いけれど、知識と予測の積み重ねが、不測の事態への備えになった。
 週3回のデイサービス通い。地域のコミュニティー活動で知己を得た女性(75)にも支えられ、卓球のサークルや温泉施設にも行く。
 「お父さんが面倒みてくれないと、私は生きられない」と言う妻。「安心しろ」と答える自分にも、健康への不安がある。それでも、妻には死ぬまで、人間として、私のそばで生きてほしい。(この項つづく)

 

(4)介護者の心映す「合わせ鏡」
認知症の妻(70)と暮らす夫の私(71)は、「心の刺(とげ)」を感じている。
 妻は、カボチャとジャガイモ、トマトとリンゴの区別がつかない。「ニンジンはこっち、肉は冷蔵庫」と言っても、「冷蔵庫」が分からない。後片づけも、一つ二つ皿を運ぶと、流しの掃除を始めてしまう。
 「何かやることない?」と聞く妻の気持ちをいかしてあげたい。そう思う自分と、「あー邪魔だ」と思う自分がいる。妻とはもう旅行もできないという諦めと、妻がいてくれなければ孤独だとの自覚が同居する。
 4年間参加した国立長寿医療研究センター(愛知県)の「家族教室」では、「合わせ鏡」という言葉を教わった。自分のネガティブな感情は、確実に妻に伝わってしまう。妻の機嫌が急に悪くなり、逆に私の感情が曇っていたことに気づく。
 鬱屈(うっくつ)した気持ちは持ってはいない。自分が犠牲になっているとも思わない。けれど、今日よりも明日がよくなることが望めない現実の中で、ある瞬間、心が沸騰する。負の部分を「思ってはいけないもの」として胸の奥に閉じこめ、抑えつけておくことがつらい。
 そんな時、心の刺がチクリチクリと痛む。
 それでも、家族教室の講義や演習を受け、分かったことがあった。明るさと暗さ。妻も私も、その両面を持ち、多面的な存在でありながら、色々なステージを乗り越え、生きていく。「反省しきれるうちはいい」と自分を認め、あるがままの自分たちを肯定した。「一日一日を楽しく。今が最高!と言えるように生きよう」という心の整理にたどり着いた。
 妻が、「あの人、私を哀れんでいる」「私ってバカになったの?」と、憤ったことがある。ある認知症サポーターと接した時だ。
 妻が、サクランボをサクランボと認識した。すると、相手は「あっ、こういうことは分かるんだ」。もちろん、その言葉に悪意はない。だが、どこかに不用意に潜む、健康なサポーターがかわいそうな認知症の人を見るという感覚が、妻の心を傷つけていた。
 人間を“卒業”した人を相手にしているわけではない。妻は今も、優しく繊細な女性のままでいる。患者と家族の目線を、皆さん、共有して下さい。
 
 〈認知症サポーター〉
 認知症の人や家族を温かく見守る応援者。自治体などで養成講座を受け、正しい知識や対処法を身につける。認知症の国家戦略「新オレンジプラン」で、800万人の養成目標が掲げられた。

 

(5)「ありがとう」褒める大切さ
認知症の妻(83)は、一昨年から会話ができなくなった。自力では立てず、介護度は最も重い5に上がった。夫の私(82)も今年1月に膀胱(ぼうこう)がんを手術した。夜、トイレに立つ妻を抱え、お尻を拭いてあげるのはきつい。
 「頑張り過ぎ」「SOSをうまく出せない」。周囲からそう言われても、デイサービスを使いつつ、限界まで自宅で2人の暮らしを味わいたい。
 結婚後も、会社勤めの傍ら、趣味のカメラに没頭した。祭りや大仏の四季を撮り、写真協会主催のコンテストで入選の常連になった。山岳登山の会をつくると、リーダーの私に妻はかいがいしく協力してくれた。社交的な人だと思っていた。
 だが、2009年の金婚式前夜、婚前の妻と交わした115通の手紙を50年ぶりに読み、息をのんだ。結婚を切り出せない、切ない乙女心が記されていた。内気で遠慮がち、あまりに繊細な女性がそこにいた。
 妻に変化が起きたのは、それより10年以上前。浮気を疑い、「2階に女が住んでいる」と言う。否定すれば逆上する。戸惑いにとらわれたまま過ごし、結果、進行に気づけなかった。
 必ず幸せにする、怒らない、たたかない。そう決めてめとった妻を、理解してあげられていたのか。私にあわせ、無理を重ねていたのではないか。心をくみ取ってやれなんだ……。
 12年に入った国立長寿医療研究センター(愛知県)の「家族教室」で、褒めてあげる大切さを教わった。
 以来、失禁しても叱らない。手をたたき、喜びを全開させて、「出てくれて、ありがとう」。入れ歯が外せると、「ありがとう」。自分でスプーンを持てると、「ありがとう」。
 やがて、妻にあう介護方法が分かってきた。
 2日連続でデイサービスを使うと、認知機能がガックリと落ちる。午後8時半以降は、妻の体に力が入らず引きずるしかないため、帰宅後すぐに消化を助けるヨーグルトとバナナを食べさせ、食事は午後8時までに終える。日々の反省を次に生かす。
 教室に提出した困り事のシートを孫娘(27)が目にして、毎日2回、電話やメールをくれるようにもなった。
 もの忘れも、物盗(と)られ妄想も、歩行障害も徘徊(はいかい)も、みんな乗り越えて今がある。介護は作業ではない。苦しみでもない。生涯の仕事だ。一日でも長く妻と生きたい。
 地域の写真サークルの月例会には毎月、出品を続ける。どんな暮らしでも、表現の場、人と話せる機会は必要だと感じている。

 

(6)「これから」自覚かみしめる
娘の私(65)がたまに化粧をすると、母(89)は、「どこに行くの」「どうして一人にするの」。夕方は、「孫娘たちが帰ってこない」と気をもむ。私が娘を車で最寄り駅に迎えに行き、帰宅すれば、玄関で仁王立ち。「一人でほうっておかれたのでは」と心配なのだ。
 母は幼子に戻ったかのようだ。過保護なほど子煩悩だった母と私の立場は、逆転してしまった。日付も分からない。トイレもよく別の方向に向かう。
 夫や2人の娘と暮らす住宅地の一軒家に引き取って、30年近く。母が、認知症と診断されて8年がたつ。母の悪性リンパ腫が分かった時は、つきっきりで看病した。常にそばにいて世話をしている方が楽だった。
 家族に対しては気兼ねがあった。皆でテレビを見ている時に、母はテロップを大声で読みあげたり、同じことを何度も繰り返したりする。嫌な顔をせず支えてくれる家族たち。その生活を私の母が乱していると思うと、胸が締め付けられた。私の体調も万全ではない。腰や首、手にも痛みやしびれがある。
 2011年から、国立長寿医療研究センター(愛知県)の「家族教室」に通った。3年前から、主治医や家族教室の仲間からデイサービスの利用を勧められた。どうしても踏ん切りがつかなかったが、昨年1月、利用を始めた。
 その朝、母をデイサービスの車に乗せて送り出し、1階のリビングで一人きりの時間に浸った。「何か忘れ物をしてしまったような」空虚感。その気持ちが去ると、窓をたたく風や時計の音が聞こえてきた。庭で揺れるキンモクセイが見えた。こんなに静か、なのか。私は、この時間を忘れていたんだ……。
 家族教室で、私は、自分の中に介護する「力」を蓄える方法を学んでいたのだと思う。
 認知症の知識を身につけ、演習では、人任せにできずに一人で抱え込む自分自身の癖も知った。デイサービスは「母にはあわない」という先入観に縛られ、相手を知ろうともしなかったことを反省した。仲間たちの経験談やアドバイスも貴重だった。時間はかかったけれど、その一つ一つが私を成長させてくれた。
 母が、昔の母に戻ることはない。「理想の母」は自分の中に置いたまま、私がいなければ命もないと言わんばかりの現在の母を自然に受け入れればよい。家族の間で板挟みだと感じるつらさも、手放せるようになった。私の介護の本番は、まだこれから。その自覚を日々、かみしめている。

 

(7)正しい知識 社会で共有
◎Q&A
 ◇国立長寿医療研究センターもの忘れセンター長 櫻井孝さん 
 認知症の家族が力をつけるためには何が必要か。国立長寿医療研究センターの櫻井孝さんに聞きました。
 ——認知症には、いまだ根強い偏見があります。
 「認知症のご本人やご家族が一番苦しんでいるのは、この偏見でしょう。すぐに徘徊(はいかい)や、尿や便の失敗が始まる。人間的な感受性を失ってしまうなどです。実際には個人差も大きいですし、改善を促す環境の整え方や治療法もある。うれしい、楽しいなどの感情は最後まで残ります」
 「認知症は今や、高血圧や心臓病などと同じく身近な病気です。国の推計では2025年には、高齢者の5人に1人、約700万人が認知症になります。40〜50歳代の世帯では、4人の両親の誰か1人が認知症でもおかしくない状況です」
 ——国の認知症戦略・新オレンジプランでは、「認知症の人や家族の視点の重視」「介護者への支援」「知識の普及」「地域づくり」などを柱としました。
 「将来、認知症が普通の病気として受け入れられると、認知症の人も家族も、社会の構成員として役割を果たしていきます。住み慣れた地域で生活するためにも、家族の介護負担を高めすぎないことが重要です」
 「20〜30年後には、現在の“偏見”も変わり、支えあいも進んでいるでしょう。そういう状態に少しでも早く近づけなければ、苦しむ人が減りません。同プランの大前提として、『明日は我が身』という感覚を、まず共有したいですね」
 ——家族教室で学べることは何でしょう。
 「患者さんやご家族の置かれた状況はそれぞれで、現実を受け入れ、暮らしを支えていくための『家族力』も一律ではありません。だから、100点満点が取れる対処法やノウハウは存在しないのです」
 「認知症は病気なので、予防から治療まで切れ目なく対応できた方が良い。でも、実感を伴わない知識は身につきません。家族教室は、講義や体験型の演習、家族同士の対話などを通じて、変化のきっかけにしてもらうプログラムです。認知症を巡る全体像を頭の中に置きつつ、必要な時に思い出し、役立ててもらえればうれしいです」
 ——「患者や家族」の視点は、認知症医療を変えるでしょうか。
 「大事なことですが、患者さんもご家族もみな『生きたい』と思っているのです。その意思を何よりも尊重できる医療システムに、社会を変えなければ。その一助として、今月、診断を受けたばかりの患者さんやご家族向けに作成した『認知症はじめの一歩』の冊子とDVDが完成しました」
 「困った時、相談ができ、常に戻ってこられる場を全国に広げたい。同センターの家族教室の試みを、全国の認知症疾患医療センターを手始めに広げたいと思っています」(鈴木敦秋)(次は「じんましん」です)
  
 ◇さくらい・たかし 神戸大学医学部卒。岡崎国立共同研究機構生理学研究所、米国ワシントン大学薬理学教室、神戸大学大学院医学系研究科老年内科・助手・講師を経て、2010年より、国立長寿医療研究センターもの忘れセンター部長。14年より現職。
     

失語症と家族

[医療ルネサンス]失語症者と家族

 

(1)5年ぶりに仕事 自信回復

「あなたは、がんばってる。僕もがんばる」
 1980年代に放送されたドキュメンタリー番組「シルクロード」を撮影した元NHKカメラマンの菊地春夫さん(東京都在住、77歳)がビデオカメラを通して、障害者に伝えたい思いだ。脳卒中で障害を負った人たちが参加したイベントや合唱コンサートなどをボランティアで撮影し、7本のDVDを作った。
 「単なるビデオじゃない。実情を切り取ったドキュメンタリー」。自らも失語症者で障害者の状況をよく知る菊地さんはそう自負する。
 2005年4月に脳梗塞で倒れ、病院に救急搬送された。右半身のまひは、発症後2か月で自力で歩けるまでに回復したが、退院時、話はほとんどできなかった。文を作ったり、話したりする機能をつかさどる左脳の一部が傷ついたのが原因だった。
 「おはよう」「こんにちは」などのあいさつも口から出ない時もあり、だまってテレビを見て過ごした。妻の陽子さん(73)の誘いで、病院や介護施設のリハビリに通った。
 絵と言葉を組み合わせたり、文を音読したりする訓練を行い、少しずつ話ができるようになった。しかし、とっさの受け答えが不安で、外出する際はいつも陽子さんに付き添ってもらった。
 変わるきっかけは発症から6年目、通院している三軒茶屋リハビリテーションクリニック院長の長谷川幹さんからのお願いだった。クリニックが2年ごとに催している障害者らの団体旅行を撮影してほしいという。話せない不安をカメラマンの好奇心が上回った。
 5年ぶりにカメラを持ち、山形県・蔵王山の火口湖を見下ろして歓喜する障害者らの姿を撮った。「自分も頑張ろう」という気持ちがわき上がった。
 映像は20分に編集し、説明のナレーションは自分で読み上げた。「リハビリテーション」など、うまく言えない言葉があり、4時間かけてやり遂げた。自分も参加した証しにしたかった。
 長谷川さんによると、失語症の回復はゆっくりで、社会復帰に数年かかるケースが珍しくない。「人と話ができないという状況は絶望的で、本人は自信を失い、ひきこもりがちになる。家族などの周囲が長い目で支え、社会に出るきっかけを作ってあげてほしい」
 現在、菊地さんは、長谷川さんと、障害者が参加する海外旅行を実現しようとしている。行き先は、現役時代の思い出の地、シルクロードだ。「面白いと思うんですよ」。ちゃめっ気いっぱいの笑顔で語った。(このシリーズは全5回)

 

(2)リハビリ 社会との懸け橋

言葉によるコミュニケーションが難しい失語症者は、他人からの誤解を恐れ、自宅に引きこもりがちだ。介護保険でリハビリ(デイサービス)が受けられる失語症者向けの施設が国内に約10か所あり、失語症者と社会をつなぐ接点の一つとなっている。
 岩手県二戸市のA子さん(51)は月2回、東北新幹線に乗り、盛岡市のリハビリ施設「言葉のかけ橋」に通っている。10人前後の失語症者と顔を合わせ、言葉を交わすのが楽しみだ。送り出す母(73)は「自宅でぼんやりしていたのが、生き生きとした笑顔を見せるようになった」と喜ぶ。
 中学校で国語教諭をしていた22年前、脳出血を起こし、言語機能をつかさどる左脳の一部に大きな傷を負った。「頭の中が津波に遭って、言葉が全部流されてしまった感じ」。仕事は辞め、自宅で療養するしかなかった。
 「言葉のかけ橋」には、失語症者が集まった会合で、言語機能のリハビリを行う言語聴覚士で代表の佐藤誠一さんから誘われた。
 それまでに1人で文章を書いたり、本を読んだりと、努力してきたが、会話は相手からせかされている気がして、上手にならなかった。「言葉のかけ橋」では、グループの中で1人ずつあいさつをしたり、失語症者や施設職員と話したりと、言葉を発する機会が多く設けられている。
 佐藤さんは「全員が失語症なので、気後れせずに、話したり、書いたりできる。長い目で続けていくことが大事」と話す。
 復職を目指す働く世代の失語症者に対象を絞った施設もある。
 都内の上松憲一さん(55)は東京都中央区の「アトリエ・ガラパゴス・デイサービス」で、読み書きの訓練を月2回受けている。
 脳出血で倒れた後、約1年で元の職場に戻ったが、書類を読んだり、理路整然と説明したりするのが難しく、同僚に助けてもらいながら仕事を続けている。
 ガラパゴスには病院を退院後に通い始めた。約10人の利用者に約4人の言語聴覚士が付くため、手厚い訓練が受けられ、質問にも即座に答えてくれるという。
 「仕事のため、元の言語能力を少しでも取り戻したい」と上松さんは話す。
 パソコンなどを使った復職のためのリハビリは、都道府県の地域障害者職業センターなどで受けられる。ガラパゴス管理者の言語聴覚士、李英愛(リヨンエ)さんは「復職のためのリハビリは、様々な団体が行っている。失語症専門の施設には、情報が集まっているので相談してほしい」と話している。

 

(3)言語聴覚士が訪問訓練

山梨県甲州市の言語聴覚士、平沢哲哉さん(52)は、失語症者の訪問リハビリを行っている。約20人を週1〜2回のペースでみている。病院を辞め、訪問を始めて12年になった。
 失語症者の気持ちがよく分かる。平沢さん自身が失語症者だからだ。31年前に交通事故で頭に大けがをしたのが原因。聞こえているのに話が分からないといった当初の症状はリハビリで改善し、仕事や生活上問題にならないが、聞き慣れない言葉はすぐに意味が分からないことがある。
 「コミュニケーションが難しい失語症は、周囲から切り離される『孤独病』。私自身も発症して間もない頃、疎外感に苦しめられた。本人・家族と地域の人々を訪問でつなげたい」と話す。
 同市に住む金井今朝義さん(78)とは、病院に勤務していた1996年からの付き合いだ。脳梗塞を発症し、言葉を発するのが難しく、笑った表情を見たことがなかった。
 平沢さんは、地域の失語症者が集まる「失語症友の会」に金井さんを誘った。最初はぎこちない感じだったが、会合を重ねると失語症者同士でうち解け、笑顔を見せるようになった。コミュニケーションの意欲が高まり、発声訓練によって発症から7年で「こんにちは」を言うことができた。
 2年前に金井さんは「友の会」の会長に選ばれた。毎回の訪問では、次の会合のあいさつも練習する。
 妻の増子さん(72)は「閉じこもり気味だったのが、訪問リハビリで外に出るように促され、積極的になった」と喜ぶ。
 言語訓練を含む訪問リハビリは、公的医療保険、介護保険のどちらを使っても受けることができる。自己負担は1割負担として40分の訪問で約600円。しかし目に見えて回復が進むわけではない失語症は、主治医やケアマネジャーの理解が得られず、リハビリが後回しになりがちで、訪問リハビリは普及していない。言語聴覚士がいない地域も多い。
 それでも、平沢さん以外に訪問を行う言語聴覚士も出てきている。鹿児島市のひさまつクリニックでは昨年12月から訪問による言語訓練を始めた。
 今年3月に平沢さんの訪問を見学した同クリニックの言語聴覚士・浜崎恵さんは「訪問が単なる訓練でなく、失語症者と家族の精神的な支えになることに改めて気づいた」と話す。
 平沢さんは今月から都内で、言語聴覚士向けに訪問リハビリの講習会を始める予定だ。「言語聴覚士には失語症者の生活を支える役割があることを気づいてほしい」と願っている。

 

(4)会話パートナーを養成

「来週末、映画に行こう。約束ね」
 東京都に住む佐々木恵子さん(65)は、ノートに大きく「映画」と書き、夫の庸(よう)さん(67)の目を見つめた。カレンダーで来週末を指して、日付を確認した。庸さんは軽くうなずいた。
 3年前、脳出血で倒れた庸さんは現在、都内の老人保健施設で過ごしている。右半身が不自由で、移動は車いす。言葉はほとんど話すことができず、聞き取りも難しい、重い失語症だ。恵子さんは団体職員として勤務しながら、週3回、庸さんを見舞い、コミュニケーションを取っている。
 失語症の庸さんと話す時、気を付けている点がある。
 まず、伝えたいことは、簡潔な短い文にする。次に、分かっているかどうか表情などで確認。質問は、うなずいたり、首を振って答えられる形にまとめる。
 これらの点を恵子さんは「失語症会話パートナー」養成講座で学んだ。同講座は2000年から特定非営利活動法人の「言語障害者の社会参加を支援するパートナーの会・和音」(東京都豊島区)が開いている。これまでに約300人の「パートナー」が修了し、家庭や介護職場で、学んだ手法を役立てている。
 和音代表で言語聴覚士の田村洋子さんは、失語症の特徴を知ると、上手な対応ができるようになるという。
 「失語症では、聞こえている音と、頭の中の言葉がすぐに一致しないということがよくあります。まずゆっくり話しかけることを心掛けてください」
 また、文字を示す際は、音を表すかな文字よりも、意味を持った漢字のほうが理解しやすい。会話を助ける道具として、食べ物や道具や地図などの絵を集めた市販のコミュニケーションノートも便利だ。
 今年の講座は11月に、失語症の知識を学ぶ基礎、話し方や接し方を試してみる実技と、介護施設などの失語症者と話す実習の計3回が用意されている。1回当たり2000〜3000円の参加費が必要だ。
 愛知県や福岡県などでは言語聴覚士の有志が「会話パートナー」養成を行っている。千葉県我孫子市、同県市川市、三重県四日市市では、自治体などが養成したパートナーを失語症者が集まる場に派遣している。
 話したり、書いたりできなくなっても、心は変わらない。失語症の庸さんを思い、恵子さんが話す。
 「庸さんのベッドに顔を伏せて休んでいたら、背中にふとんを掛けてくれたんです。これからもコミュニケーションをとって、一緒に生きていきたい」
 
 ◇言語障害者の社会参加を支援するパートナーの会・和音の連絡先 メールアドレスnpowaon@live.jp

 

(5)不安和らげる「友の会」

◎Q&A 
 ◇三鷹高次脳機能障害研究所所長(言語聴覚士) 関啓子さん
 失語症について、三鷹高次脳機能障害研究所長の関啓子さんに聞きました。
 ——失語症はどのような障害ですか。
 「脳卒中や頭のけがで、言語に関する神経回路が傷ついて起こります。言葉という記号を脳の中で扱いにくくなり、『話す』『聞く』『書く』『読む』を行うのが難しくなります」
 ——良くなりますか。
 「傷ついた神経回路に代わるルートや場所が脳内にできることで症状は改善すると考えられています。回復は5年、10年と年単位でゆっくりと続きます」
 ——関さんも失語症の症状があったのですか。
 「右利きの人は言語機能が左の脳にありますが、私は左利きで『話す』ことに関わる機能の一部が右の脳にありました。そのため、滑らかに話せない時期があり、失語症者と同じような悩みを感じていました。ただ『聞く』『書く』『読む』ことはできましたので、失語症ではなかったと思います」
 ——家族の対応は。
 「失語症者が置かれている状況を想像できるだけの知識を得てください。食べたい物を聞かれて『おすし』と答えているのに、失語症者は『カツ丼』と答えたつもりでいる場合があります。このような症状があると知っておけば、対処の仕方があるでしょう」
 ——知識を得るには。
 「失語症について一般向けに書かれた本や全国失語症友の会連合会などの自助グループが開く講演会や例会、広報誌などから情報を入手できます。『友の会』では全国各地の支部で定期的に会合を持っています。そのような会に参加して、それぞれの対応を教えてもらうと家族の不安も軽減しますし、本人も勇気づけられると思います」
 ——リハビリは。
 「失語症専門のリハビリを行っている介護施設や、訪問の言語訓練をしてくれる言語聴覚士などを探すといいと思います。私が昨年開設した『三鷹高次脳機能障害研究所』でも退院した失語症者を対象にしたリハビリをしています。一部の自治体では、会話パートナー養成講座の開講、リハビリの機会提供をしています。病院のソーシャルワーカーか、住んでいらっしゃる自治体の障害者福祉の窓口で尋ねてみてください」
 ——失語症者にどう接するといいでしょうか。
 「失語症者はうまく話せなくても、状況判断の能力は保っています。身ぶり手ぶりや表情、態度をうまく使えばコミュニケーションを取れます。敬意を込めて接することが大切です。孤立している失語症者も多いのが現状です。失語症を理解し、支えてくれる人が増えてくれることを願っています」(渡辺理雄)(次は「シリーズ薬 ネット販売」です)
 
 ◇せき・けいこ 1976年、国際基督教大卒。神戸大教授だった2009年7月、脳梗塞で右脳の一部を損傷したが、リハビリで10か月後に復職。11年3月、同大を退職。13年2月から現職。著書に「まさか、この私が」(教文館)。

見えない脳外傷

[医療ルネサンス]見えない脳外傷

 

(1)CT「異常なし」で見逃す
横浜市の古い県営住宅。田村智孝さん(39)の部屋はクーラーが壊れ、暑さと湿気でむせ返るほどだ。
 6年前まで建築現場で働き、月30万円以上の収入があった。現在はこの部屋に移り、生活保護で細々と暮らす。不況で失業したのではない。仕事中の事故で健康と職を失い、十分な補償も受けられぬまま、体の不調と厳しい生活にあえいでいるのだ。
 左足のまひのため歩行が困難で、体を動かすと痛みが増す。外出を控え、1日の大半をトイレ近くの板の間で過ごす。膀胱(ぼうこう)の障害で頻尿が続き、就寝時もそこを離れられない。身を横たえる座イスはすり切れ、中綿がなくなりペシャンコになった。だが、買い替える余裕はない。
 「希望を持たないとつぶれてしまう。この子たちが心の支えです」。生まれて間もない2匹のウサギを、まひした左腕で抱きしめた。
 田村さんの障害は、軽度外傷性脳損傷によるものだ。交通事故や労災事故などで頭部に強い衝撃を受け、意識を短時間失ったり、もうろうとなったりした人の一部に起こる。嗅覚(きゅうかく)障害、視野狭さく、難聴、頻尿、てんかん発作、手足のまひなど、様々な症状が表れる。
 だが、正しい診断がつくまでの道のりは簡単ではなかった。
 事故が起きたのは、2004年秋。建築現場でソフトボール大の岩が頭部を直撃した。約5メートル上の造成地にいた元請け会社の役員が、何気なくけった岩だった。ヘルメットをかぶっていたが、あたった瞬間、衝撃で体がガクンと沈み込んだ。文句を言おうと歩き出した瞬間、意識を失い倒れた。
 その場に寝かされたまま、30分弱で意識は戻ったが、ひどい頭痛やめまいがあり、同僚の車で近くの病院に行った。奥歯が2本折れていたが、頭や首のCT(コンピューター断層撮影法)には異常が見つからず、医師は「むち打ち」と診断した。
 ところが、体調は日に日に悪化し、「血管を熱湯が流れるような激痛」が、左の手足を襲った。3週間分の痛み止めは、いつも数日でなくなった。市販薬を買うしかなく、薬代が10万円を超えた月もあった。
 口が滑らかに動かず、言葉がたどたどしい。飲食物の味や熱さがわからず、物が二つに見える——。懸命に症状を訴えたが、画像検査では異常がない。「むち打ち」との診断は変わらないまま、月日が流れた。(このシリーズは全5回)

 

(2)「むち打ち」診断 実は損傷
仕事中の事故で軽度外傷性脳損傷を負った横浜市の田村智孝さん(39)は長い間、「むち打ち」と診断されてきた。
 むち打ちは、交通事故などの衝撃で首が大きく振られ、頭痛などが起きる。CT(コンピューター断層撮影法)などで異常が見られない点は、軽度外傷性脳損傷と同じだ。しかし、通常は短期間で治り、軽いけがとして扱われる。
 北九州古賀病院(福岡県古賀市)排泄(はいせつ)管理指導室長の岩坪暎二さんは「首のむち打ちでは、中枢神経が関係する排尿障害などの異常は起こらない。さらに、視覚、味覚などの障害が出たら脳損傷を疑うべきだ」と指摘する。
 田村さんは事故から4年半が過ぎた2009年春、軽度外傷性脳損傷友の会(東京都江東区)が結成されたことを知り、紹介された湖南病院(茨城県下妻市)を受診した。
 院長の石橋徹さん(整形外科)は、1時間以上かけて事故の状況や体調を聞いた。大学病院などに依頼して膀胱(ぼうこう)や視力、嗅覚(きゅうかく)などを詳しく調べ、田村さんを軽度外傷性脳損傷と診断した。
 石橋さんによると、事故後すぐに2週間以上の安静を保ち、ビタミン投与で神経の修復を促せば、症状を軽くできる可能性がある。時間がたった後の有効な治療法はないが、「病名が分かって心が軽くなった」という患者は多い。東京都板橋区の砂田匠さん(38)もその一人だ。
 タクシー運転手だった砂田さんは、仕事中にトラックに追突されるなど03年以降3度の事故に巻き込まれた。後頭部の激しい痛み、左脚のまひ、視野狭さく、頻尿などに苦しみ、仕事を失った。症状を訴えても医師は不審そうな顔で聞き流し、精神科の受診を勧めた。
 一昨年暮れ、多量の睡眠薬を飲んで自殺を図った。家族がすぐに救急車を呼び助かったが、「痛みや障害を医師に信じてもらえず、苦しかった」と話す。砂田さんも、石橋さんの診断で本当の病名が分かった。
 田村さんも砂田さんも当初、障害の程度が軽い「むち打ち」との診断だったため、労災保険の年金給付を受けられない。「友の会」では、年金給付が受けられるよう、関係機関に対し求めている。事務局長の斎藤洋太郎さんは「事故の治療にかかわるすべての医師が、この障害の知識を持ってほしい」と訴える。
 
 ◎軽度外傷性脳損傷友の会
(電)03・3685・2617
ファクス 03・3683・9766
ホームページ http://mild‐tbi.net

 

(3)転び、頭クラッ…尿漏れに
道路保全管理会社の神奈川県にある事務所。2004年10月のある日の未明。突然鳴った電話に、夜勤中の舞草一(まいくさはじめ)さん(47)は横たわっていたソファから跳び起き、足がもつれて、おしりからドスンと床に落ちてしまった。
 頭が揺さぶられ、意識が一時もうろうとした。勤務が明けた後、腰痛をこらえて自宅近くの病院に行くと、「頸椎(けいつい)ねん挫(むち打ち)」などと診断された。
 その後、目の前を素早く動く人を目で追ったり、赤や黄色など原色の看板を見たりすると、頭がくらくらとするようになった。足に力が入らず、ふらつくこともあった。
 しかし、頭や背骨のCT(コンピューター断層撮影)検査では、異常は見つからなかった。
 恥ずかしくて医師に伝えられなかったのが、「尿漏れ」だった。けがをして以降、無意識のうちに尿が漏れ、下着を汚すことがあった。
 08年12月、知り合いの医師に紹介されて、埼玉県越谷市の安田泌尿器クリニックを受診した。
 院長の安田耕作さん(独協医大名誉教授)は、転んだ直後の一時的な意識障害、目や足の症状などから、「軽度外傷性脳損傷」による尿漏れを疑った。
 尿をためる膀胱(ぼうこう)の出口には、尿道を取り囲むように外尿道括約筋がある。通常は締まっているが、排尿時には、脳神経などの指令で緩む。ところが脳が損傷を受けると、誤った指令によって尿漏れが起きる可能性があるという。
 外尿道括約筋の働きは、直径0・5ミリほどの針電極を会陰部から刺した状態で患者に排尿してもらう検査で、調べることができる。同クリニックや大学病院などで実施している。
 舞草さんは、この検査で、外尿道括約筋が正常に働いていないことがわかった。尻もちをついた際に頭が強く揺さぶられ、脳に損傷を負った疑いがある。
 舞草さんは、尿漏れを防ぐために肛門(こうもん)を締めたり、緩めたりする訓練と、飲み薬による治療を行っている。
 安田さんによると、脊髄(せきずい)損傷でも尿漏れは起きるが、舞草さんのように脊髄損傷がなく、加齢や出産などが原因でもない場合では、軽度外傷性脳損傷の可能性も考えられる。
 厚生労働省では、省内に検討チームを作り、専門家から話を聞くなどして、排尿障害などの症状による軽度外傷性脳損傷の診断基準作成に取り組む方針だ。

 

(4)ホルモン減少で倦怠感
東京都の30歳代の看護師A子さんは2004年、バイクで訪問看護に行く途中、車にはねられ、頭を道路で強く打った。
 体に大きなけがはなく、頭部のCT(コンピューター断層撮影法)検査でも異常はなかったため、すぐに仕事に復帰。しかし事故以来、ひどい頭痛に加え、抑うつや意欲低下、倦怠(けんたい)感などに苦しんだ。集中力を維持できずにボーッとしてしまい、看護記録を書くのに何時間もかかるようになった。
 「事故のショックではないか」と考え、精神科を受診。生死にかかわる恐怖体験が引き金で起こる心的外傷後ストレス障害(PTSD)と診断され、カウンセリングや、抗不安薬などの薬物治療を受け始めた。
 ところが精神的な症状は一向に改善せず、看護の仕事を続けられなくなった。事故から2年後、A子さんは軽度外傷性脳損傷と診断された。今も症状に悩まされている。
 軽度の脳損傷で、抑うつや集中力低下、気分の激しい変動などが表れることがある。しかし、画像検査で異常がないと、PTSDやうつ病などと診断されることが少なくない。理由は十分には解明されていないが、脳下垂体が傷つくと、ホルモンの分泌が減少し、意欲低下などにつながることがわかっている。
 神戸大病院糖尿病・内分泌内科講師の高橋裕(ゆたか)さんは「下垂体は脳の下部にぶら下がっているため、頭部に衝撃を受けると激しく揺さぶられ、損傷しやすい」と指摘する。
 兵庫県の40歳代の大工の男性は、2階の屋根から転落して以来、意欲低下や倦怠感で仕事ができなくなった。精神科などを何か所も回ったが改善せず、同大病院を受診。血液検査などで、下垂体の働きが低下していることがわかった。下垂体ホルモンの刺激で分泌される甲状腺ホルモンなどを薬で補う治療のおかげで、症状は回復した。
 下垂体が関係するホルモンは多くあるが、「外傷による脳損傷では、成長ホルモンが低下するケースが目立つ」(高橋さん)という。この場合、患者が毎日、成長ホルモンの自己注射を続ける必要がある。下垂体機能低下症が09年に国の難病(特定疾患)指定を受けたことで、治療費の患者負担は軽減された。
 高橋さんは「事故をきっかけに精神的な不調が続く場合は、内分泌科で下垂体の詳しい検査を受けてほしい」と話す。

 

(5)画像偏重 見逃しの背景
◎Q&A
 ◆湖南病院院長 石橋徹(いしばし・とおる)さん
 軽度外傷性脳損傷について、患者会の顧問を務める湖南病院院長の石橋徹さんに聞きました。
     ◇
 ——軽度外傷性脳損傷とは、どんな病気ですか
 脳内では、様々な情報が軸索という神経線維を通って、やりとりされています。交通事故、転倒、スポーツなどで頭部に衝撃を受けて、この軸索が傷ついた状態と考えられます。
 けがをした時の意識障害の程度により、軽度、中等度、重度に分類され、欧米では7〜9割が軽度とされています。
 軽度外傷性脳損傷の多くは3か月〜1年で回復しますが、WHO(世界保健機関)の報告では、患者の約30%が様々な症状に苦しみ、CDC(米国疾病対策センター)の報告では、9%の患者が1年後も社会復帰できないと言います。
 ——症状は?
 〈1〉記憶力や理解力が衰える〈2〉根気がなく、怒りっぽくなる〈3〉失神やけいれんを起こす〈4〉においや味を感じにくくなる〈5〉見えにくくなったり、聞こえにくくなったりする〈6〉手足がまひして、ひどい時はつえや車いすが必要になる〈7〉尿や便が漏れる——などです。
 ——課題は何ですか
 軽度外傷性脳損傷は、脳の損傷が小さな軸索にとどまるため、脳内出血が起こらない限り、CT(コンピューター断層撮影)やMRI(磁気共鳴画像)検査などで損傷を確認できません。このため、「問題はない」「心の病気ではないか」などと放置されがちです。
 労災認定では、画像診断で異常があることが重視されます。このため仕事ができないほどの症状に悩んでいるのに認定されず、生活が困窮する患者もいます。
 ——診断基準はあるのですか
 WHOが2004年に提唱した基準があります。〈1〉けがをした後の意識の混迷または見当識障害(季節や場所など自分の置かれている環境を理解できない)〈2〉30分以下の意識喪失〈3〉24時間以内に元に戻る健忘症——のうち、いずれか一つ以上に該当する場合。または、けがをして30分後か医療機関に搬送後の意識レベルが、「ほぼ軽度の意識障害」に該当する場合です。
 日本には診断基準がありません。しかし、10年4月の参議院厚生労働委員会で、長妻厚労相が「持続する頭痛、記憶障害などの症状が表れる疾病であると承知している。診療ガイドラインや診断基準を作る必要がある」と発言しました。
 ——日本の医療に、何が足りないのでしょうか
 WHOは07年、外傷性脳損傷を、「静かなる、そして隠れた流行病」だとして、関係機関に対策を勧告しました。ところが日本は、この病気に対する認識が低く、対応が遅れています。
 検査データを重視し、患者を診ない画像偏重主義が、この病気を見逃す背景にあります。患者の苦しみと社会的損失は甚大で、対応が急がれます。(佐藤光展、坂上博)
 (次は「シリーズ痛み 続私の物語」です)
 
 ◇いしばし・とおる 湖南病院院長 慶応大医学部卒。専門は整形外科。国立病院機構東京医療センターなどを経て現職。

続・見えない脳外傷

[医療ルネサンス]続・見えない脳外傷

 

(1)「うそつき」の疑い晴れた
CT(コンピューター断層撮影法)やMRI(磁気共鳴画像)に映らない脳の小さな損傷が、重い身体症状を引き起こす軽度外傷性脳損傷。本欄で2010年7〜8月に「見えない脳外傷」を掲載して以降、この病気と診断される患者が増えている。千葉県の渡辺彩香さん(23)もその一人だ。
 事故にあったのは8歳の時。登校途中、走ってきた体の大きな上級生に背後から突き飛ばされ、頭部を路面で強打して意識を失った。
 画像検査では脳に異常は見つからなかった。だが、脚に十分な力が入らず、ゆっくりなら歩けるものの、大きくふらついてしまう。
 学校は、母の八千代さん(48)が車で送り迎えをした。体育はすべて休み、掃除当番もできない。ひどい頭痛や刺すような胸の痛みもあり、主治医の整形外科医が処方する鎮痛剤を使ってもあまり効かなかった。
 1年たっても治らず、「ずるをしてさぼっているのでは」という周囲の目に傷ついた。担任からは「事故で対人恐怖症になったのでは」と言われ、主治医には「学校で嫌なことがあるの?」と聞かれた。
 「みんな、体の不調に耳を傾けてくれなかった」
 「私はうそつきでも怠け者でもない」と示すために、痛みをこらえて学校に行った。中学校でもトップクラスの成績を維持し続けた。
 だが、高校2年になると、少し動いただけでも高熱が出るようになり、胸や背中の痛みもますます激しくなった。下を向いたり、活字を目で追ったりするだけでめまいや吐き気が起こり、勉強が困難になった。
 大学で心理学を学ぶ夢をあきらめ、高校を退学。その後、1日のほとんどを自宅で横になって過ごした。
 昨年秋、記事で紹介されていた湖南病院(茨城県下妻市)院長、石橋徹さんを受診。やっと軽度外傷性脳損傷と診断された。
 この病気とわかっても特効薬はないが、彩香さんは「うそや思い込みではないと証明されただけで、本当に救われた」と語る。心の重荷が取れ、最近は「少しでもリハビリになれば」と、八千代さんと近所に買い物に行く機会が増えた。
 この1年足らずで、石橋さんが新たに診断をつけた患者は約200人。全国には、まだ埋もれている患者が多数いるとみられる。(このシリーズは全5回)
 
 〈軽度外傷性脳損傷〉
 頭部に衝撃を受け、一時的に意識を失ったり、もうろうとなったりした人の一部に起こる。神経細胞をつなぐ細かな線維の断裂などが原因と考えられている。頭痛、めまい、体の激痛、四肢まひ、視覚障害、味覚障害、排尿障害などが出る。

 

(2)労災判定で軽症者扱い
 CT(コンピューター断層撮影法)などの画像検査には映らない軽度外傷性脳損傷を、仕事や通勤中の事故で負っても、身体障害の等級を軽く判定され、十分な労災補償を受けられないことが多い。判定を不服とする東京都八王子市の臼井弘明さん(55)は、2008年に国を相手取り訴訟を起こした。
 事故は、醸造酒開発の技術者として山梨県の地ビール工場で働いていた1997年に起きた。車を運転して帰宅中、高速道路でスリップして側壁に激突した。約3か月入院。首の骨を折る大けがだったが、頭部のCTには異常は見つからなかった。
 ところが退院後、左半身まひや右半身の痛み、歩行時のふらつきなどの症状に襲われた。仕事柄、日本酒の銘柄をぴたりと当てるほど味覚や嗅覚には自信があったが、事故後は香りの違いが分からなくなった。
 何度か職場復帰を試みたが、数分の立ち仕事で激しく疲労した。約3年間休職しても治らず、退職した。
 その後も体調は悪化し、電車に乗ると意識を失い、目的の駅を何駅も過ぎることがたびたび起きた。めまいも頻繁になり、ほかの仕事にも就けなくなった。
 労災保険の休業給付は受けたが、障害等級(重い方から1〜14級)は、事故との因果関係が断定できないなどとして11級と判定された。このため8〜14級の人に支払われる障害一時金は受けられたが、重症者(7級以上)が補償を長く受けられる障害年金の対象にはならなかった。
 臼井さんの裁判を支援する、湖南病院(茨城県下妻市)院長の石橋徹さんは「医療は『まず画像ありき』ではなく、患者を診察して訴えを聞くことから始まる。脳外傷との因果関係は十分解明できる」と訴える。
 一方、国は昨年、画像に映らない脳損傷についての見解として、「近代医学は検証できる明確な根拠をもって判断する。(中略)従って今は不可知の問題である」などとする医師の意見書を提出し、争っている。
 患者らでつくる「軽度外傷性脳損傷友の会」の調べでは、患者側が労災の障害等級などを不服とし国を提訴する民事訴訟が近年相次ぎ、臼井さんを含め全国で7件起こされている。その最初のケースとなる臼井さんの裁判は7月、東京地裁で判決が言い渡される。
 
 〈身体障害の等級〉
 身体障害者手帳の等級、国民年金や厚生年金の障害年金を受けるための等級、労災保険を受けるための等級があり、それぞれ独自に審査され、等級が異なる場合がある。軽度外傷性脳損傷の患者は、特に労災保険の等級で低く判定されやすいという。
 
(3)脳脊髄液減少症も併発
体を強く打ち、軽度外傷性脳損傷と似た症状が出る病気に「脳脊髄液減少症」がある。
 埼玉県の石川ヤヨヒさん(53)は2006年4月、車を運転中に対向車に正面衝突され、意識を失った。
 すぐに我に返り、車外にはい出たが、激しいめまいで数歩しか進めず、道に座り込んだ。救急搬送された病院の整形外科で検査を受け、頸椎(けいつい)ねん挫と肋骨(ろっこつ)などの骨折で全治3週間と診断された。
 だが入院して1か月たっても、めまいは治らなかった。壁などにつかまって立ち上がっても、ひざに力が入らず、一歩も進めない。3か月のリハビリで、つえをついてゆっくり歩けるようになったが、退院後も100メートル歩くのに40、50分かかった。
 長く絵の講師をしていたが、右手がしびれてペンを握れなくなり、教室を閉じた。頭痛や目の痛みなども続いた。東京都内の病院を受診したところ、脊髄を覆う膜の小さな穴から液が漏れる脳脊髄液減少症と診断された。
 この病気の治療には、あらかじめ採取した患者本人の血液を腰椎(ようつい)から注射し、液漏れの原因の穴に血を固めて塞ぐブラッドパッチ治療が行われる。
 石川さんの場合、いったんは、右手のしびれが消えた。しかし、1、2か月で再発。07年3月までに計4回受けたが、絵をきちんと描けるのは毎回、数か月だけだった。
 「私の体はどうなっているのか」。知人の紹介で受診した病院で09年暮れ、脳に微細な損傷を受けたために痛みや片まひなどが起きる軽度外傷性脳損傷もあると診断された。味覚や嗅覚の低下、皮膚の知覚低下もこの病気の症状で、「食べ物をどれもまずく感じたり、手足にけがをしても痛まなかったりしたので気になっていた。事故が原因とは思わなかった」と驚く。
 この二つの病気は、発症のきっかけや症状が似ており混同されやすい。また、まだ医師の間で広く認知されておらず、専門家同士の連携も進んでいない。国際医療福祉大熱海病院脳神経外科教授の篠永正道さんは「同じ患者が両方を併せ持つ可能性もあり、注意が必要だ」と指摘する。
 
 〈脳脊髄液減少症〉
 脳と脊髄の外側を満たす脳脊髄液が、首や背骨への衝撃をきっかけに外に漏れ、水位が下がることで脳の位置も下がり、症状が引き起こされるとみられる。立ち上がると頭痛がする症状に加え、歩行困難やめまい、上肢の痛み・しびれ、視力低下、難聴なども、患者の20〜40%に起こる。腰から微量の放射性物質を入れ、特殊な画像装置で見て診断する。

 

(4)物忘れ リハビリで軽減
ひどい物忘れや集中力の低下——。軽度外傷性脳損傷の患者は、こんな高次脳機能障害に悩むことが多い。
 福井県の60歳代の女性は2006年、歩行中に車にはねられ、一時的に意識を失った。肋骨(ろっこつ)を折る重傷だったが、脳に異常はみられず、傷が癒えると事務の仕事に復帰した。
 ところが、依頼された仕事を繰り返し忘れるなど、物忘れが目立つようになった。倉庫に物を取りに行くと、途中で何を取りに来たのか忘れてしまう。長年続けた作業の手順も思い出せなくなり、仕事を辞めた。
 精神科や心療内科を経て、2年前、福井県高次脳機能障害支援センター(福井市)を受診。検査の結果、知能や記憶力の低下がみられた。
 センター長の小林康孝さん(神経内科医)は、女性の事故の状況や脳損傷が画像で確認できないことから、軽度外傷性脳損傷による高次脳機能障害と判断した。
 治療は、簡単な計算や数字のパズル、会話をしながら迷路をなぞるなどの訓練と、メモやアラームを活用して日常生活での認知力の低下を補うリハビリに取り組む。事故から時間がたっても、一定の効果が期待できる。
 この女性は、「財布、診察券、エコバッグ」など外出時に忘れがちな17品をメモ書きしたリストを作り、バッグに貼りつけた。しばしば空だきすることのある電気炊飯器には「スイッチを押す前に中を確認」と紙を貼った。
 通院日などの予定は、リハビリスタッフが女性の携帯電話にアラームをセットし、画面に用件が表示されるようにした。
 同センターの言語聴覚士、富田浩生さんは「当初は日常生活に大きな支障が出ていたが、最近は計算が速くなり、メモなどを活用して忘れ物も減った」と語る。
 支援センターは全国各地に設けられている。リハビリの一環として、家族に病気の知識を深めてもらうことや、生活の支障を減らすための家庭での工夫の指導も行われる。
 小林さんは「軽度外傷性脳損傷は、損傷そのものを治すことはできないが、高次脳機能障害による日常生活の支障はリハビリで減らすことができる」と話す。
 
 〈高次脳機能障害〉
 脳卒中や、交通事故などでの頭部外傷による脳の損傷で起こる。新たな事が覚えられない、集中できない、計画的な行動ができない、感情の抑えがきかない、身体の左側にあるものが見えているのに認識できずぶつかる、などの症状が表れる。損傷を受けた場所で症状が異なる。各地の支援センターは、国立障害者リハビリテーションセンターのウェブサイト(http://www.rehab.go.jp/ri/brain_fukyu/kyoten_list.pdf)に掲載されている。

 

(5)損傷「見える」検査へ工夫
従来の画像検査ではわからない軽度外傷性脳損傷を、検査法の工夫で「見える」ようにしようとの試みが進められている。
 通い慣れた病院に向かう途中、突然、道が分からなくなる。鍋を火にかけていることを忘れる。ささいなことで怒り出す——。大阪府の主婦、増谷寿子(ますたにひさこ)さん(36)は2004年1月、交通事故に遭って以来、こんな症状に悩まされるようになった。
 バイクで仕事先の幼稚園から帰宅中、乗用車と衝突し、頭を強く打って1か月入院した。症状はあるのに、脳のCT(コンピューター断層撮影)やMRI(磁気共鳴画像)の検査では異常が見つからない。約20の医療機関を受診したが、多くの医師は「原因がわからない」「自律神経失調症ではないか」と繰り返した。
 11年1月、岐阜県美濃加茂市の木沢記念病院・中部療護センター長の篠田淳さん(脳神経外科)=写真=を受診した。同センターは、自動車事故で脳損傷を受け、重い意識障害がある患者の治療と看護などを行う専門病院で、独立行政法人・自動車事故対策機構が設立した施設の一つだ。
 軽度外傷性脳損傷は、神経細胞をつなぐ細かな神経線維の断裂などが原因と考えられているが、損傷が小さいため、通常のMRIでは捉えにくい。同センターは、健康な人の画像情報と比較することで、損傷したとみられる部分を際立たせて画像化する手法を研究している。増谷さんは脳中心部の神経が損傷していることが疑われた。
 また、放射線を帯びたブドウ糖を注射し体への取り込み具合を見るPET(陽電子放射断層撮影)検査も受けた。本来、がんの診断に用いられる検査だが、脳神経細胞の活動が活発だとブドウ糖を多く取り込み、損傷していると取り込まない違いを利用しようというものだ。
 増谷さんはこの検査で、脳の活動が低下している部分が見つかった。軽度外傷性脳損傷のために、物忘れなどの高次脳機能障害の症状が表れたのではないかと診断された。
 篠田さんは軽度外傷性脳損傷が疑われる50人以上の患者を診察し、この二つの検査で約6割に画像に異常が見つかった。検査法の確立を目指し、今後さらに研究を進める予定だ。(佐藤光展、坂上博)(次は「大震災・茨城から」)
 

ある覚醒体験!

白取春彦さんのケアノート「突然苦しさ消えた ー 父の介護やるしかない」(読売新聞)(リンクはここ)「事実を認める、ありのまま受け入れる」、というある日突然の覚醒体験が記されています。

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